先日、昭和初期に生まれたおばあちゃんと話をしました。
おばあちゃんの生まれ育った時代には水道がなく、毎日日課として15分歩いた先にある水場まで水を汲みに行っていたらしいです。
冬の雪の積もった日には、その作業がとてもつらかったものだと語ってくれました。
ぼくは「おばあちゃんは子供の頃、何が楽しみだったんですか?」と尋ねてみました。
するとおばあちゃん「楽しかった事はほとんどなかった。何もない時代だったから。でも・・・」
「夏に海で泳げる事と、防空壕でもらえるお菓子はとても楽しみだった。」と。
当時、空襲のサイレンが鳴り響くと、市民は防空壕に逃げ込むものだったらしいのですが、狭いところに人がぎゅうぎゅうづめになるので、子供がストレスで泣き始めたりするのを防ぐために、お菓子が配られていたらしく、それが楽しみだったと。
しかしおばあちゃんのお父さんは「防空壕なぞにはいかん、死ぬときは畳の上で死ぬ。」という気概の持ち主の人だったようで、おばあちゃんは「防空壕いこう、防空壕いこうよ。」とお父さんにすがったらしいです。
いやあ、凄まじいですね。
いま僕達が、あって当然と思う事すらなく使っている蛇口から出る水は、当時やはり当たり前ではなかったのです。
僕達が今使っている目に見える物、目に見えない物(電磁気)、ほとんど全ては先人達が人生をかけて作ってくれているものばかりなのです。
当たり前ですが、忘れがちな事だと思います。
世の中は物にあふれているが。
偉大な先人たちの、世界を豊かにしようという心は、我々の世界を物で満たしてくれました。
今や僕達は、食うものには困らず、暑さ寒さにも動じず、日々快適に暮らす事ができています。
インターネットの発明によってさらに情報と物の流れはスムーズになり、ますます世界は物質的に充実しております。
さてしかし、冒頭のおばあちゃんの過ごした時代に比べて天国の様な世界にありながら、なお人々は渇きを訴えているように思えます。
彼らに対して「あのおばあちゃんはこんな時代に生まれてこんな生活をしてたのにお前らはとても恵まれていて(略)」なんていう話をしても無意味です。
おばあちゃんの過ごした世界と彼らの世界は圧倒的に異なっているので、リアリティーのある想像が出来ないのです。
ややもすれば、「昔はよかった」なんて昔の事を知りもしないのに言ったりするのはこのためです。
彼らは本気で、水道も、ガスも電気も十分になかった時代が良かったと信じているのでしょうか。
まあそれはそれでいいと思います。たぶん、ほら穴で1週間ばかりも過ごせばすぐに解る事でしょうから。
ここで一番の問題は、人間はいかに身の回りに便利な物やお金が増えようと、それだけでは幸せになる事ができないという事です。
既に必要なものは在る。
もはや我々日本人が自分たちの命を支えるにあたって根源的に足りない物というのはありません。
しかし生産効率やエネルギー効率は上がり続けますから、ますます世の中は豊かになっていきます。
そして、どんなに物質的に豊かになったとしても、我々はそれ自体で幸せになる事ができないという事を歴史が証明しています。
だから、自然に還ろう。なんていうつもりはサラサラなく、物質的豊かさはそのままに、心の豊かさを求めるべき時代が来ているのだなあと僕は思っています。
心の豊かさとは何か
これは多分、幸せの感受性なのだと思います。つまり、心の在りようの事です。
マザーテレサが語ったといわれる次の様な言葉があります
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
簡単に言うと考える事は、いつか現実になってしまいますよ。という言葉だと思います。
ここから、やや強引な話なのですが、我々は現実に欠乏しているから欠乏を感じているわけではなく、欠乏を感じているから欠乏するという現実が訪れるのではないかと思うのです。
たとえばある資産家が、資産の大半を失ってしまって残り1,000万円しかない、どうしよう、死ぬか。みたいな話はこの論を補強する代表的な例だと思います。
なぜこの人は欠乏を感じてしまったのでしょうか。それは「欠乏」について考えたからです。
欠乏という言葉を、彼の中で軽々しく扱ってしまった結果、事実として欠乏を感じてしまったのだと思います。
言葉に気をつけるという事
私は現在、プログラミングの仕事をしながら、品質管理の任を与えられているのですが、仕事がらよくお客さんとメールでやり取りをします。
その時に、「問題」とか「失敗」とか「不良」などという悪印象を与えるような言葉をなるべく使わないようにしています。
不思議な事に、この事を心がけてからは、明らかにこちらに非があるような場合でも、あまりお客さんから責められなくなりました。
話し合いの場でも、朗らかに事が進むようになりました。
そもそも、この様な対応を迫られる事自体が減ってきました。
これが果たして、僕が言葉に気をつけたから起こった事なのか、それとも単に偶然なのか。それはわかりません。
ただ最近は、多分、心の豊かさとは、自分の中に巡る言葉をいかに大切に扱うのかという事の様な気がしています。
本日もG線上のきりんにおこしいただきありがとうございます。
極小の量子の世界では原因と結果はその並びで起こるのではなく、結果があるから原因があるともされます。
原因と結果、どちらもが原因になりうるし、どちらもが結果になりうるという事なんですね。
それではまた♪
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