人生の目的というと大げさかもしれませんが、僕は昨日の自分よりも今日の自分が、ほんの少しでもよいものでありたいという気持ちで日々を生きています。
よく生きるとはなんだろうか、なんてことを考えるにあたって、フランクリン・ベンジャミンの語った「13の徳」などが有名ですね。
1. 節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。
2. 沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。
3. 規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。
4. 決断 なすべきをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。
5. 節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。
6. 勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。
7. 誠実 詐りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。
8. 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして人に損害を及ぼすべからず。
9. 中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すと思うとも、激怒を慎むべし。
10. 清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。
11. 平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。
12. 純潔 性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これにふけりて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときことあるべからず。
13. 謙譲 イエスおよびソクラテスに見習うべし。
ベンジャミン・フランクリン氏はアメリカの100$札の顔の人です。
彼の語ったこれらのことは確かに、真をついた素晴らしい言葉だと思いますが、ぼくの考える「徳」はもっとシンプルです。
僕の考える、人のあるべき姿について
ある日、ぼくがネットショップで注文した商品について、配送担当の人からの電話を受け取ったときのことです。
電話の内容は、荷物を運んできてくれた人がぼくの家に日中おとずれたところ、ぼくが不在だったので荷物をどうしますか。という内容でした。
僕は、「それなら、夕方7時以降に運んでもらえるようにお願いします。」と答えて電話をおえました。
それを聞いていた先輩が、「ネットショップで注文するときには、時間指定をつかったほうがいいよ。」と教えてくれました。
僕はそのときまで時間指定ができるということを恥ずかしながら知りませんでした。
先輩はぼくが、これまで運送屋さんと何度か上のようなやり取りをしていた事を、見かねた上で教えてくれたのだとおもいます。
それでぼくは、そのことを教えてもらったお礼と、今後そうしますということを先輩に伝えました。
そして直後、先輩の口から放たれた言葉に心を打たれたのでした。
「やったことは、ぜんぶ返ってくるからね。」
先輩は、ふだんから神仏のたぐいを信じる人ではなく、なにごとにしても合理的で論理的な人なので、この言葉を先輩の口から聞いたことに、ぼくは衝撃をうけました。
やったことは、ぜんぶ返ってくる。
作用反作用という物理の法則があります。
それこそ、原子のようなミクロの世界から、惑星間のような大きな世界にまで影響する法則です。
にぎりこぶしで誰かの顔面をなぐるとき、全くおなじ力で、こぶしは相手の顔面から殴られる(?)というあれです。
すなわち物理的に「やったことはぜんぶ返ってくる」という法則のことです。
これが果たしてぼくたちの行動にまで影響するのかどうかは、本当のところはっきりしないものだと思います。
しかし、ぼくはなんとなく、このことはすべての事に当てはまるような気がします。
仏教には「因果応報」という言葉があり、これは原因があり、結果があるという意味の言葉で、作用反作用の法則とは微妙にちがうのですが、広義にいうと「やったことは時空を超えてぜんぶ返ってくる」というような意味をもちます。
さて、この「やったことはぜんぶ返ってくる」ということ。
信じるか信じないかはみなさんの自由なわけですが、ぼくは尊敬している先輩の口からこの言葉を聞いたときより以来、このことについて深く考えるようになりました。
「やったことはぜんぶ返ってくる」がたとえ真実じゃなかったにしても、このことを意識して生きていれば、道を踏みはずすことはないんじゃないだろうかと。
どれだけ繊細に意識できるか
ぼくたちの活動はすべて「やったこと」になります。
それは考えること、言うこと、行動すること、すべてにおいて当てはまります。
それらがすべて返ってくるとしたら、人はどういう活動をするべきか、という実にシンプルなことです。
ものごとの善悪の基準、ともすれば「人はなぜ人を殺してはいけないのか」などということが問われることもありますが、「やったことはぜんぶ返ってくる」に照らせば簡単なことです。
自分が殺されたくないから、人を殺さないというだけのことです。
自分が優しくされたいから、人に優しくする。
自分が奪われたくないから、人から奪わない。
究極、相手が○○であるから、自分は○○するということは、そこに一切ないのです。
どこまでも利己的に思えることかもしれませんが、人はしょせん、自分のものさしでしか他人を理解することができないものと思います。
その人間の中に、そもそもないものは、わかりようがないからです。
それであれば、自分がどうあれば嬉しいのか、悲しいのか、自分のなかに備わっているものさしに忠実にしたがって生きるべきであるとおもいます。
あとはどれくらい、自分の「やったこと」について繊細に感じて生きることができるか、というところに収まるのかなと。
繊細になんて言っていますが、これらのことはいつか、考えなくても無意識で、限りなく正解に近い動きができるようになれればいいなとおもっています。
本日もG線上のきりんにおこしいただきありがとうございます。
ちょっと複雑になってしまってすみません。
要するに、他人も自分も同じように扱うようにする。
というだけのことですね。
「やったことはぜんぶ返ってくる」ということが果たして本当なのか。
みなさんの人生においても実験していってもらえればとおもいます。
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