こころ

人生が原理的にどこまでも自分の思い通りな件

先日、面白い記事を見ました。

その記事の中では、人間の錯覚に関する実験が行われていて、実験者は被験者に対して1枚の写真を見せます。

写真の中には白衣を着て、こちらを向きながら黒板に書かれている何かを指差している男性が写っています。

実験者は、その写真の男性のことを偉い科学者なのだと言います。

それを聞いた被験者たちは、この男性の印象を尋ねられて「どうりで知的だ」「とても賢そう」などと答えます。

しかしその実、その写真はあるポルノビデオの1場面を切り取ったもので男性はポルノ俳優だったわけです。

また別の被験者にあらかじめその男性がポルノ俳優だと知らせてから写真を見せると、以前の被験者とは全然ことなる感想が返ってきたとのことです。

オチがわかっていれば滑稽な話ですが、人はだいたい、このステレオタイプという呪縛から逃れることができません。

ステレオタイプ、つまり先入観はよく悪いもののような言い方をされますが、これがあることで私達はだいぶ楽をさせてもらっていたりします。

たとえば、自宅に帰れば安心できるというステレオタイプが崩れてしまうと、この世はどこまでも野生のジャングルさながらになってしまうでしょう。

そしてステレオタイプがあればこそ、実際に野生のジャングルに立ったとき、そこは考えるまでもなく危険に感じられ、身構えることができます。

このとおり良くも悪くも人間が考えることをショートカットするために編み出したステレオタイプですが、その便利さの反面これが錯覚の温床になってしまうということでして、これが人間が決して正確にものごとを見ることができない原因なのです。

錯覚の中で生きるワタシ

なにかに対して、私が絶対にできると思った瞬間、私は原理的にそれを絶対にできる人になります。

本当にできるとかできないとかは関係なく、私がそう思うからそうであり、逆に言えば、それ以外の世界は見ることができない。

とはいえ外圧はつきもので、私自身がいくら「俺は絶対にできる!!」と思ったとしても、周りの人から「いやそれは無理だろう」と言われることもあるでしょう。

その「いやそれは無理だろう」と言われる自分という構図すら、私が私として認知している私だけの世界の出来事なので、そこで「俺は絶対にできる!!」と言う自分に対して「それは無理だろう」という人がいるという世界を自分で自分の中に築いているということになります。

仮に私が「絶対にできる、例外はありえない」と本気の本気で錯覚できる人であった場合、「いやそれは無理だろう」という意見を私は認知することができないでしょう。

であるなら、周りの人が言う「いやそれは無理だろう」というセリフは、実は自分が思っているセリフに過ぎなかったという見方もできます。

これを突きつめると私が経験している人生というものは、そもそもの原理的にすべて私が思っている通りの人生なのだなと思う次第です。

これはすごいことですよね。一瞬も止まることなく続くこの世界、宇宙の端のまだ見ぬ星に至るまで、常に私たちが創造し続けているということになります。



ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。」という言葉を残しています

最近はSNSでの誹謗中傷が話題になっていますが、誰かの傷つくようなことを言ったりしたりすることは、上で述べたことに照らせば結局自分のことを傷つける行為に等しいわけです。

であるならば、なるべく自分を深淵から遠ざけて、某麦わらの海賊の人のように「好きなことで自分を語る」というのが自分に優しいあり方だと私は思います。

自分が認知する世界を、自分の好きなことばかりにすることができれば、どんなにか素晴らしいことだろうなあ、と。

ちなみに「悲しみを知ることで優しくなれる、だから私はあえて深淵を見るのだ」という類の主張も目にしますが、私はこれには懐疑的です。

人間、余計な悲しみなんて知らないほうが良いんじゃないかな、と。

例えば、人は騙されることで相手を疑うことを知ってしまうんじゃないでしょうか。

そもそも騙す人がいなければみんな素直に生きられるはずです。

お釈迦様も「苦行は無意味」と言っていることですし。

悲しみや苦しみは、自分と愛する人の「生老病死(生まれ、老い、病に罹り、死ぬこと)」だけで十分すぎるのでしょう。



と、まあ現在の人の理解が届く範囲で考えれば、人々はみんな自分の意識の中に閉じられた状態で生きているということになります。

原理的に私たちは、私たちで築いた意識の範囲を超えることができません。超えたと思っても、そこはまだ意識の範囲だからです。

世の中のみんなが自分の世界の中で勘違いをして生きているのが真実であるなら、誰かの言動に一喜一憂するのは無意味なのかもしれません。(※ それでもあたたかい言葉には嬉しく思うし、悲しい言葉は辛く感じてしまうことからもまた逃れることは出来ないのですが)

誰も本当の私のことを知らないし、私自身ですらも本当の私のことを知り得ない。で、あるなら本当の私なんてないに等しい。

そう思ったとき、もっと誰かに優しくなれるような気が私はするのです。

追記 2020年5月28日

とはいえ、私も誰かと深くつながることができたと感じる瞬間はいくつも経験してきました。

現代の理屈で言えば、それは単なる私の脳が見せた幻覚や妄想のたぐいであると一蹴されてしまうことですが、いつか本当に誰かと誰かの意識が、何か目に見える形で繋がっている証拠を人が発見できたらいいなと思います。

でも、そんなこと実のところはどうでも良くて、誰かと深く繋がったと感じた瞬間に、本当に繋がっていたのだと思います。

私がそう心から感じたとき、私の意識の範囲、私の宇宙はそういう風に形を変えるのではないでしょうか。

たとえ、それが私の宇宙の中でだけの話だとしても。

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