簡単に言えばこれからの時代、国家もサービス業と化すだろうという事だ。
究極的に言えば国家がやっている事というのは、国民からお金(税金)を受け取り、各種サービス(インフラ、各種保障)を提供しているというだけにすぎない。
先祖代々の土地、心の故郷といった感情の部分を全て取っ払ってしまった時、そういう、シンプルな図式が浮かび上がってくる。
その上で、今後はベンチャー国家というものが出てくるんではないかという予想が立つ。
ベンチャー国家は、税金の仕組みが単純かつ明確であり、顧客である国民はいくつかのベンチャー国家の中から自分たちが好きな国家を選択する。
国家の存在する土地の気候や、福祉の充実具合、自分の従事したい産業の成長度合い、国家の運営方針などを鑑みて、どの国家に属するかを決める。
例えば、ある国家では個人の通信の傍受・監視などは一切行わない。国家の運営の為に集めた個人情報は一切外部に提供しない。
などというプライバシーポリシーが国家全体で制定されているような国ならば、そこに移住したいと思う人も多いのではないだろうか。
AI(人工知能)を使って、税金を状況に合わせてリアルタイムで最適に設定します。とか言うのも面白い。
ただ人間が果たしてここまで合理的になれるかどうか。
人は肉体を持つがゆえに、その身体性というものを大切に思うものだ。
例えば、これから自動運転の自動車が街を走りはじめるらしいという現代だが、果たして人間にそれを受け容れることができるのかという問題はあると思う。
誰かが自動運転の車に乗り、その持ち主が運転をAIに任せて車中で眠っている間、もしその車が不幸にも誰かを轢き殺してしまったとしたら、その時、人は人間に責任を求めずに居られるだろうか。殺されてしまった人の遺族には誰が謝ればよいのだろうか。
眠ったまま車に乗っていた持ち主か、車のボディを作った者か、ソフトウェアを開発した者か。
起こる事故の状況も様々であるだろうことから、理屈で考えれば、上に挙げた三者のうち誰も明確に責任を持っているとは言いづらい。
その過失を引き受ける責任の所在が曖昧な機械が人を殺めてしまった時、人間の感情は特に救われにくいものだと思う。人が赦すという行為には、その怒りの分量と同じだけの重みを持つストーリーが必要なのだろう。
つまり上で述べた身体性とは、一人の人間の持つ内なるストーリーの事だ。
結局は自動運転車のメーカーや、国家が遺族に給付金を渡すことで解決するより他ないように思うのだが、その時、
「確率的には非常に小さい不幸だったが、運悪くそれに当たってしまった。」
と納得できる人間しか帰属する事の出来ない国家、なんて物が生まれたとき。
その国家がどういう道を辿って行くのか、薄ら恐ろしくもありながら興味も尽きない。
本日もG線上のきりんにおこしいただきありがとうございます。
上に挙げたような例も含め、この本はAIに関して実に幅広い内容に触れてあって、とても面白かったオススメの本です。
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