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先日、友人のHideさんから本を贈ってもらいました。
ぼくたちに、もうモノは必要ない。
ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -っていう本なんですが、これがかなり面白くて少し人生観変わりました。
今日はこの本に書いてあった内容についてざっとご紹介したいと思います。
僕らはモノと情報に囲まれすぎている。
かつて産業革命が起こる以前は、人々はそれぞれ2〜3着の服しかもっていなかったそうです。
もちろん、モノの数も圧倒的に少なかったわけですね。
そして現代、本来必要なモノはすでに普及したうえで、さらに消費をさそう効果的なアプローチを考える事に世界はシフトしつづけています。
モノと情報はあふれて、いつしかぼくらを取り囲んでいます。
今の日本を生きる人が一日に受け取る情報量は江戸時代に生きた人の一年分とも、一生分とも言われています。
一方、人間自体は5万年前のままだ。
モノと情報は爆発的に増え続けているにも関わらず、僕ら人間のからだや脳は5万年前から進化していません。
そりゃそうです。産業革命は200年前、情報(IT)革命はたかだか20年前の出来事です。
過剰なモノと情報のビッグウェーブに人間の肉体的な進化が追いつくはずはなく、既にメモリーもハードディスクもCPUもパンク状態。
そんな実情の中で、本当に大切な物が見えていると言い切れる人は、果たして何人いるでしょうか。
モノを管理するためにかかるコスト
ふだん意識はしませんが、モノを維持・管理するコストというものは確実に存在します。
たとえば、でかくて重いもの。
その下の部分を掃除しようと思えば、それをどかして、掃除して、また戻して。という手順が必要になります。
複雑な造形のモノは、ちゃんときれいにしようと思えば複雑な手の動きで掃除をしないといけません。
また、単純に、「場所をとっている」というそれ自体が、実はコストになっています。
すべてのモノは、お店に置いてもらった場合、場所代が発生するものです。
そもそも、我々な何故こんなにもモノが欲しがるのか
そこには、「慣れ」というものが大きく関わってきます。
僕らが街でジャケットを買ったとします。
買う前にはもうものすごく欲しい。そして手に入れます。
しかし、いざジャケットを手に入れてしまうと、何度か着ていくうちに、もう最初買ってはじめて袖を通した時の感動はどこかにいってしまいます。
人間の「慣れ」をつかさどる神経ネットワークは「差」によって刺激を得るようにできているからだそうです。
同じだと認識するモノからは「差」を感じれなくなるので、飽きてしまい、その乾きを癒やすには「差」をさらに大きくするか、変化させるしかない。
少女は初め、プラスチックの指輪に目を輝かせますが、つぎに金属の指輪がほしくなり、ブランドの指輪が欲しくなり、世界で一つの指輪を手に入れたとしても、いずれ飽きてしまうというわけです。
モノによって自分の価値を示している
結論から言えば、モノをとおして自分が価値のある人間だという事を知らせるためにモノを持っているといいます。
人間の内面というものは伝えるのに時間がかかりますし、証明する事がとてもむずかしいものです。
しかしモノなら簡単に伝える事ができる。そこで人は所有するモノで自分の事を相手に伝えようとするのだと。
なぜ自分の価値を伝えようとしたがるのか
人間は自分に価値がないと思ってしまうと孤独を感じる生き物だからです。
なぜ孤独が怖いのか
人間は昔から群れをなして生活してきました。でなければ自然の脅威に立ち向かう事ができなかったからです。
結果、人間が群れから離れると、群れに戻りたくなるようになるプログラムが出来ました。
それが「孤独感」です。
誰かと繋がりたいと感じる「孤独感」は、本能が命じる警報のようなもので、警報が鳴っている間、人はストレスを受けつづけます。
僕らは想像以上に少し先の未来すら予測できない。
人間はあらゆる動物の中でも唯一未来を見て行動できる生き物だと言われますが、その能力も思っているほど優秀ではなさそうです。
たとえば、お腹がものすごく空いているときに、店でたくさんの注文をしてしまって、つらくなってしまった。
酒を飲み過ぎて具合が悪くなってしまって次の日に思うことはいつも「もうこんなに飲み過ぎないようにしよう」
こういった経験はわりと誰しもお持ちなんじゃないでしょうか。
こういう未来予測の精度の低さが、必要以上にモノを欲しがってしまう人間の特性のベースにあるようです。
モノが発する沈黙のメッセージ
この部分が一番刺さったので、ほぼそのまま引用させてもらいたいと思います。
モノをへらすと、集中力まで高まる。これはなぜだろうか?
モノだからといって、ただ黙って置かれているわけではない。置かれたモノはメッセージを発している。
特に大切に扱われていないモノであればあるほどそのメッセージは強い。途中で放り出した英会話の教材があれば、「暇そうだね。そろそろ、ぼくにもう一回挑戦してみたらどう?」、切れたままの電球があれば、「また買うのを忘れたのか、このくらいの簡単なことができないなんて・・・」
溜まった洗い物の皿なら、「またこれか・・・もうお前には期待しないからな」。普通に使っているモノからもメッセージは発せられる。テレビからは「録画した番組、たまってますよ。あとそろそろ、ホコリを払ってくれてもいい頃じゃないかと」。
パソコンがあれば、「お友達のプリンターが欲しいな・・・いや、何でもないです」。ボディソープからは「えー、そろそろ切れそうでっす!」。
シーツからは「お忙しいところすみません、僕も一緒に洗濯してもらっていいですか?」。どんなモノでも大切に扱いたがってもらっている。あなたがちゃんと相手にしてくれ、メッセージを受け入れてくれるのを、列をなして順番を待っているのだ。
ぼくらは「いつか使うだろう」と思っているようなモノを取っておいて、目にはいるだけで、無意識のうちにいくらかの精神的なものをすり減らしているのです。
大切なのはこれらの特性を知る事だと思う
僕は人が新しいモノを買うのも、置物を置きまくるのも悪いと思いません。
ただ、上記のような理由によって、自分がモノを欲しているという事を理解しておく事が大事なのかなと。
そして僕は、上のような事を知ってしまった以上、なるべくモノの少ない生活がしたいものだなあと思ってしまいました。
できるだけ身軽で、必要最低限のモノを大切に扱う。
そうする事で、結果的に清潔で充実した毎日を過ごす事が出来るような気がします。
所有したもの全てに「慣れ」てしまうのならば、人はモノに囲まれる事で幸せを感じる生き物ではないのだと思います。
人に本当に必要なのは、その瞬間に感謝ができる余裕なのかなと。
本日もG線上のきりんにおこしいただきありがとうございます。
この本をくれたHideさんもブログ「ゆるミニらいふ」を書かれています。ぜひ訪れてみてくださいね〜♪
それではまた♪
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