「話があるから来て頂戴。」
先日、いかにも母親らしい簡潔なメールが送られてきました。
母親から「話があるから来て」と言われて、行きたいと思う人は中々いないと思いますが、有無を言わせない迫力が行間からこみ上げていました。
指定された時間より前に顔を出すと、非常にストレスが溜まっていらっしゃったようで、鼻息を荒くしてお迎えいただきました。
ここではなんだからと、車に乗って、適当に道を走らせました。
その間、とめどなく喋りまくる母。
答えの用意されていない謎かけの様な話を1時間ほど聴きながら、いつの間にか佐賀県は嬉野市の「みゆき公園」にたどり着きました。
夕暮れの空気はとても澄んでいて、散歩道には枯れ葉が舞い散り、秋の雰囲気と、これから来る冬の予感を感じさせました。
想像以上に広い公園内を歩きながら、色々な話をしました。
途中、一輪だけ咲いた十月桜の花や、どこからともなく香る金木犀の匂いで、古い思い出話に花が咲きました。
僕は、「悪い人」や「良い人」は存在しないと思います。
ある側面から見た時に、「悪い人」や「良い人」であるだけの話です。
発信する人も、受け取る人も、その日の体調や気分に影響されて感じた、その結果です。
ただ在るのは、自分にとって「良い関係の人」か「良くない関係の人」かという、ある種自己中心的とも言える感覚のみです。
そして重要なのは「良くない関係の人」に対して頑張って良い関係を築こうとした時点で、目的と過程に矛盾が生じてしまい、それは成されないという事です。
誰かに対する頑張りは相手にも同じ努力を無意識下で求めてしまうものであると思うからです。
どちらかが努力を放棄した時点で、すぐに関係は壊れてしまいます。
なのでこれ難しいと思うんですけど、人と良い関係を築こうと思うと頑張っちゃダメなんですよね。
自分の心を整えて、ただ心の底から湧き上がる慈愛を以ってして接する他ないのだと思います。
相手が相応に愛を以って応える事の出来る人であれば、その時初めて良い関係が築けるのだと思います。
その人の為に努力する事と、愛する事、似ているようですが全く違います。
努力する事は相手に媚びる事であり、愛することは自発的であると思うからです。
同じ様に「良い事」も「良くない事」も存在しないと思います。
世界の法則に従って、ただあるがままにそこに発現する事象、それ以上でも以下でも無い。
長い時間の中で瞬間的に起こるさざ波の様なものだと思います。
世界中のどんな立場の人々も、訪れる「良い事」と「良くない事」の総量比は変わらないと思うんですよね。
ただ在るのは解釈の違いだけであって、皆同じように一生懸命に生きているんだと思います。
そしてどうせ生きるしかないのなら、昨日より今日、少し楽に生きられる道を探したいものですねと。
そんな道があるんでしょうかとお思いの人もいらっしゃるでしょうが、これは在るのだと思います。
かつて、日々の食料の確保にすら苦しんだ我々の祖先を思えば、その苦労の礎の上に、ずいぶん我々は楽をさせてもらっているものだと思います。
世界は確実にいい方向に向かっているものだと、僕は思います。
僕は、どんなに理不尽に思える問題や苦労も、きっと何かしら事態を好転させる可能性が隠されているものと信じています。
意思在るところに道ありという事でしょうか。
願わくは、より賢く生きていきたいものですね。
それではまた。
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