今見てるぼくの景色は、他人の目を通してみるとまったく別の景色に写るものであろうなあと、写真を撮る時にはいつも考えてしまいます。
できるだけ普遍的と思える写真を撮るのがよいのか、ぼく個人の目線に徹した写真を撮るのがいいのか。
一時期考えたことがありましたが、今となっては考える意味などないという思いに至りました。
ぼく個人の目線なんていうものは、今この一瞬だけのもので、ずっと変わりゆくものだからです。
また普遍的に思えるということも、ぼくという人間のフィルターを通したものである以上、同じく変わりゆくものです。
相対的なぼくからは絶対的なものが生まれることはありえないということですね。
なのでまあ、最近は「みんなからどう見えるだろうか」なんて事は考えず、自分の好きに撮らせてもらっています。
どうしたって無意識のうちに他人からどう見えるかって事は考えてしまいますからね。だからそこに敢えてフォーカスを当てて考えることは無駄だなあと。
自分の今の精一杯で、誰かが生きるようにと願った写真を好きに撮って、それでだめならもうしょうがないなあ、という気持ちです。
諦めるちから
先日、世界陸上のメダリストである為末大さんの「諦める力」という本を読みました。
この人はもともと短距離走を得意とする人で、子供のころは大会でもバンバン勝てていたらしいです。
しかし時間が経ち、自分も周りも成長してゆくにつれ、環境がかわり勝てなくなってしまったそうです。
そして苦渋の決断のとき。
自分の持っているもの、陸上界の環境、全てを冷静に考えたとき、メダルを獲得するためには400mハードルに転向するべきだとして、その道を進む事に決めたそうです。
そして、かれは世界陸上でメダルを手にしました。
感情的には、いままでやってきたことを手放すというのは大変に納得しがたいことだったと思います。
しかし、かれは感情を廃して冷静に論理的に、勝つための戦略をとった結果、メダルを手にするという栄光を手にしたのですね。
想いによって作られた目的を、実現するために論理を使う
まあ全ては結果論かもしれませんが。
しかし爪も牙もない人間の、唯一の武器である大脳を使って論理的に考えることを放棄して、想いだけで戦おうとするのは怠慢なのだと思います。
まず想いがある、そしてそれを実現するために論理を使う。
為末大さんは、自分のもっとも納得できるやり方を見つけて、それが自分に合っていたことで力を発揮できて、賭けに勝つことができたということですね。
論理的に考えると皆、最期は負ける
そして、こういう身もフタもない事を書くと誤解をされてしまいそうですが、ぼくが最近おもうのは、
人間というものは、命というものは結局、最期は「負けて死ぬ」ということです。
愛する人の命、自分自身の命、財産、名誉、全身全霊をかけて、守るために日々戦ってきたものたちを最終的には何一つ守ることができず、全て失って死ぬということです。
この場合に「負ける」という表現を使うのが正しいのかは微妙なところですが、論理的に考えると、やはりそこに行き着いてしまいます。
悲しくはないのですが、人間というのは、命というのはみんな、同様にさびしいものに思えます。
ここから導き出されるものは、ちっぽけすぎる自分を守ることの無意味さ、ですね。
生きていることはさびしいから、みんなそこに花を添えたくなるのだと思います。
本日もG線上のきりんにおこしいただきありがとうございます。
ぼくも少なからず、魂などについて信じたい気持ちがありますが、いままで一度も実在を証明されたことがない以上、あてにして生きるのはむずかしい。
あったとしても、それは生きているうちに役に立つものではない気がします。
あるかどうか分からない以上、役に立ったのかどうかも分からいという意味で、ですね。
ぼくらが確実にあると言える瞬間は、いまここにしかないです。
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