文章を書いていると、色んな人を思い出します。
色んな人が私の心の中に住んでいて、私はその人たちと心の中でお会いして、文章を綴っている気持ちです。
でも、誰かの為に書いているという気持ちは、ほとんどありません。
私は文章を書く時、誰かの事を考えて書いているが、誰かの為に書いている訳ではないという事です。
人の為に、という事
人のためになることをする。というのはとても素敵な事だと思います。
でも、それを言ってしまうと、なんだか情熱がふっと弱まるのを感じてしまいます。
それはほんの少し、自分に嘘をついている気がするからだと思います。
昔は、人の為と思えば、自分の持てる力以上の事が出来るのかなと思っていました。
しかし、齢30を過ぎてくると自分のエネルギーの状態に対して、とても敏感になってきます。
10代の頃の溢れんばかりのエネルギーがなくなるかわりに、何をすれば元気が出て、何をすれば元気がなくなるかを体が敏感に察知するようになって来るわけです。
そんな私が、自分の為に物事を推進する時に最もエネルギッシュに動ける事が最近分かってきました。
私は、誰のためでもなく、自分が書きたいから文章を書くし、自分が良いと思える写真を撮りたいから写真を撮るのです。
自分が論理を考えるのが好きだから、次回から楽をしたいからプログラムを書くし、ギターの音色が聴きたいから弾くのです。
その結果、人のためになれる事があれば、人から賞賛される事があれば、それはどんなに素晴らしい事かと思います。
自分のやりたい事をやった時、結果がどうあれ、それは全て成功なんだと思います。
それはとても潔く、清々しい事だと思います。
自分というのは拡張出来るものだと思う。
結局的に自分が一番大事という話ですかと、思われるかも知れませんが、大体その通りです。
自分の世界を決めるのは自分以外になく、本当の本当の所、人の気持ちなんて完全に知り得るはずがないからです。
(だって自分の気持ちですら完全にわからないのに)
しかし私は「自分」というのは、その人の機嫌や体調によって拡張と縮小をするものなのかなと、最近思います。
機嫌と体調が良い時、人は自分の所属するコミュニティ全体を自分として捉えて動く事が出来るのかなと。
逆に自分の機嫌が悪いと、周囲の人間を隔絶する壁を作ってしまい、すなわち自分を孤立させてしまうんでしょうね。
さらに機嫌が悪くなると、自分すら心から隔絶してしまう人も出てきてしまうようです。
ここで話が戻りますが、自分が本当にやりたいことをやっている人が、自ら死を選ぶという事はないと思うんですよね。
そういう人はむしろ強烈に生に執着するはずで、大きなエネルギーを産む事が出来るのかなと。
アンパンマンの作者のやなせたかしさんが「まだ死にたくない。面白いところに来たのに俺は。何で死ななきゃならないんだよ。」 と生前93歳の時点で言っていたのが非常に印象深いんですが、相当に好きな事やってたんだろうなと思います。
好きな事を探すという事
じゃあ我々の好きな事って言うのはなんでしょうか。
それはどんな「作業」が好きかという事に尽きると思います。
こんなに複雑で奇跡的なものであるこの宇宙も、その最小単位の素粒子の集まりであるように、どんなに偉大な成果も「日々繰り返す作業」を基にして成り立つのだと思います。
その作業が好きになれるかどうかというのが最も重要な部分かなと。
もし好きな事がない人がこの記事を見たのなら、自分がどんな作業が好きかに注目してみて欲しいと思います。そして、好きな作業を見つけるためには、とにかく色々な作業をやってみる事だと思います。
昨晩夕食をご馳走になったヨーロッパ旅行が大好きな女社長が言っていた言葉「お金じゃないのよ。」の言葉がとても印象的でした。
私の周りの凄い人は皆「お金じゃない。」という事をいいます。
同時に、「お金じゃない」と言っている事自体がお金の大切さを暗に強調するようなものであり、そこに経営者としての厳しさがあるのだと思うのですが。
そういう人たちは、つまりお金を払ってでもしたいという事を見つけた人なのかな。と思います。
「お金を払ってでもやりたい事」=「好きな事」
そういう事を、私もこれから私の仕事にしていきたいと思います。
そのために今日もブログを書いているのだと思います。
本日もキリンに来て頂いてありがとうございます。
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