先日Podcastというインターネットを使ったラジオ番組の高城未来ラジオ – Podcast – Podtailを聴いていたら面白い人が出てきた。
どこかの学校の先生らしいのだけど、はばかることなく「自分は宇宙人です」ということを豪語していた。
そして「どうもみんな時間の考え方を逆にしているのではないか」ということを番組内で語っていた。
時計の今昔
我々の知っている時計と言えば、文字盤の上を秒針が滑るものが主だと思うが、この先生のいうところによると、その昔、時計というものは秒針が固定されており、文字盤が動いて時間を表現していたらしい。
そしてこの時間の捉え方が本来のものであり、この仕組があべこべになってしまったことで、みんな時間についての考え方を誤ってしまったということを言っていた。
つまり、時間は過去から未来に流れているのではなく未来から過去に流れているのだという。
僕はこの話を聞いたときに完全に理解できていた訳ではなかったのだが、それからというもの、ずっと何か胸にひっかかるものを感じていた。
未来が過去を規定する
世の中には過去に囚われる人と、そうでない人がいる。
あるとき、こんなことを言う人がいた。
「いや、俺がそういうことを書くと何様だって思われそうでさ」
僕にもかつてはそういう、一見謙虚的な気持ちがあったことを思い出した。
まあこの点については、結局何を書いても「何様だ」と思う人は出てくるのだと思うし、そうであればなるべく自分の本音をさらけ出すことで、それでもお付き合いできる人を探すほうがよほど楽しいだろうということを確信している。インターネットがそれを可能にしてくれたのだ。
話が逸れてしまったので戻そうと思う。問題なのはこういうことを言う人は未来を予測できていると思っているのだろうなあということだ。
何が吉とでるか、何が凶とでるかなんて、結局のところはやってみないとわからないのだ。
たとえ凶と出たとしてもそれを経験としてつぎは吉を呼ぶことができるかもしれない。
どんな原因で何がどうなるかわからないのであれば、とりあえず信念に基づいた行動を取るほうがいいと僕は思っている。
もちろん生き死にに関わる事であれば熟考したほうがいいかもしれないけれど、現代日本でそんなに切迫した選択を迫られる事なんてほぼない。
というよりもどうせ遅かれ早かれ皆死ぬのだから、ほとんどなんでもありだとすら思う。
つまりここまでで何が言いたいのかというと、未来というものは過去が決めるものではなく、未来が過去を決めるのだろうなあと。
どんなに最悪に思える経験も、それを超えていつか幸せを感じる事ができたなら、これまでの事は全部良かった事になるし、その逆もまた然りということだ。
だから「これまでの自分はこうだったから、こうなるだろう」という予想にはまったく意味がないのだと、僕は思う。
建前は最小限にして、やりたいことをやるべきだ。
そういう事を、ひょっとするとあの先生は言っていたのかなあという事をこの間、ふと思ったのでした。
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