最近ぼくは仏教に興味があるということを以前、記事に書きました。
ぼくが興味を持っているのは、ブッダの語った言葉をそのまま、当時の言語(パーリ語)で現代に受け継いでいると言われている初期仏教とよばれるものです。
初期仏教には、そもそも神というものが存在しません。
また、念仏を唱えると極楽に行けるとかいう考えもありません。
神に祈ったところで、なんの意味もないというスタンスです。
魂については、あらゆる宗教でまず存在する事を前提に語られていて、ずっと探してるけど、見つからないのだからないよね。
死ねばどうなるのかとか、そういうことは出口のない袋に入るようなもので考えるだけ無駄であって、そんなことしてたらすぐに寿命が尽きるよ。
という実にドライで現実的な考え方です。
なのでこれが宗教かどうかというと、ちょっと微妙なところだと思います。
ふつう宗教に存在する神様の存在についてや、その神様への祈りについてなど、霊的なことや儀式について否定的な見解なので。
科学的思考をもつ現代人向きの考え方なんじゃないかなあと思います。
初期仏教というのはただただ、人間のこころについて冷静に見つめている教えです。
お経というのは、ブッダと誰かの対話の記録のことらしい
ぼくはお経についてこれまでぜんぜん知らなかったのですが、お経の中身というのは、ブッダがその時々で出会った人との対話の記録らしいんですね。
その中の一つのエピソードがとてもおもしろかったので、ご紹介したいと思います。
思い出しながら書いてますので、原文ままではありません。
またそもそも、この対話の記録の原書にかかれているパーリ語の文法や表現は日本語と大きく違うらしく、もともとのニュアンスを伝えるのは困難だということらしいんですよね。
まあしかし、わかりやすいお話です。
あるバラモンとブッダの会話の記録
あるところに一人の、とても有名なバラモン「ソーナナンダ」が住んでいました。
バラモンとは、インドの身分制度(カースト)の中で最高の地位である、司祭階級のエリートのことです。
当時のインドはとても力があり、世界とはインドのことでした。
なのでこのお話のなかでは、バラモンというのは人類で最も地位の高い人間、という認識です。
そのバラモンの中でも有名なバラモン「ソーナナンダ」の住むところに、あるとき、ブッダがやってくるという報せが舞いこみました。
当時すでにブッダはその地方で有名であったために、ソーナナンダは自分から出向いてブッダと会おうと考えました。
しかし、たくさんの弟子がそれを止めました。
ブッダはシャカ族の王子で、その身分はクシャトリヤという王族・武人階級であったために、最高位であるソーナナンダが出向く必要はないという理由でした。
ソーナナンダはお客様をお迎えするのに身分は関係ないと、弟子たちを説得してブッダのところに出向くことを決めました。
さて、弟子たちを説得して、連れて出てきたものの、ソーナナンダの心中はおだやかではありませんでした。
もしもブッダと比べて知恵のおとる所を見られれば、自分の名誉が地に落ちてしまいます。
そうなれば、いま連れてきている多くの弟子たちも路頭に迷わせることになる。
そんなことを思い悩みながらブッダのもとに出向き、とうとう彼と対峙してしまったソーナナンダでしたが、不安で言葉が出ませんでした。
ブッダはそんなソーナナンダの苦しみを察し、彼のもっとも得意とする「バラモンの中でも、最も優れたバラモンとは、どんな人物でしょうか」という質問を投げかけました。
最も得意とする研究分野に関する質問を受けたソーナナンダは、ブッダの心遣いに感謝しつつ生き生きと答えました。
最高のバラモンであるための、5つの条件
「その条件は5つあります
1つめに、生まれは7代前までバラモンであること。
2つめに、バラモンの祈りの経典をすべて暗記していること。
3つめに、美しい男であること。
4つめに、幼いころから道徳を守っていること。
5つめに、理性と知恵のあること。です。」
と自信満々に答えました。
ブッダは「その5つの中から1つ、条件から外すことが出来ますか。」とたずねました。
この質問で、ただ型にはまった考えではなく、ソーナナンダの生きた知恵を知ることができるとの考えからの質問でした。
ソーナナンダはすぐに「できます。美しい男であることを捨てましょう。美貌は人格と関係がないから。」と答えました。
ブッダは「さらにもうひとつ外すことができますか。」とたずねました。
ソーナナンダはまたすぐに「できます。経典をすべて暗記していることを外しましょう。」と答えました。
当時、今と違ってすぐに知識にアクセスできるコンピューターのなかった時代に、物事を覚えていることにさして意味がないということを見抜いていたというのはすごい。
さらにブッダは「もう一つ外すことができますか。」とたずねました。
ソーナナンダは「それでは、生まれがバラモンであることを外しましょう。生まれは人格とは関係ありません。」と答えました。
ブッダは「さらにもう一つ外せますか。」とたずねました。
するとソーナナンダは「もう外すことができません。道徳が知恵を育て、知恵によって道徳を育てることができるからです。」と答えました。
ブッダはうなづいて「私もそう思います。」と言いました。
沸き起こるブーイング
それを聞いていた弟子たちは文句を言い始めました。
すべてのバラモンの誇りである、美貌と経典と生まれが重要ではないということをソーナナンダが言ったからです。
その騒ぎに向かってブッダは言いました。
「この中で、ソーナナンダよりもバラモンについて詳しい自信があり、自分のほうが対話にふさわしいと思うものは、話をしましょう。」
もちろん、ソーナナンダについてきた人たちの中に彼よりも知恵があるものはおらず、騒ぎはこの一言で収まってしまったということです。
ソーナナンダの甥
ソーナナンダは「私からもひとつ言わせてください。」と言って次のように語りました。
「わたしの甥っ子は7代前までバラモンで、すべての経典を覚えており、大変に美しい男だが、殺生はするし酒を飲みまくるし暴力を振るう。いかに生まれがよくて優秀で美しくてもこれでは意味がないとわたしは思う。」と。
おはなしはここで終わります。
さて、本当に知恵は道徳を、道徳は知恵を育てるのでしょうか。
それらは試したい人が試してみると良いと思います。
ブッダというのは「知恵を完成した人」という意味らしいんですね。そして、知恵とは真理のことです。
地球が丸いということは真理で、誰にも覆すことのできるものではないように、ブッダの語る言葉は反証のしようがないものである。というのが初期仏教の立場のようです。
くつがえせるものなら、どうぞやってみてください。という自信が面白い。
本日もG線上のきりんにおこしいただきありがとうございます。
上に書いた話は、アルボムッレ・スマナサーラというスリランカのお坊さんが書いた本の中に書いてあります。
例えばこの本「怒らないこと」は有名で、40万部も売れている本のようですね。
2000年以上前に生きたブッダという人の知恵を今でも活かすことが出来るというのは、人間、その本質はなかなか変わることがないというのが、また面白いことだと思います。
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