自分には子供が居ないのに、子供にスマホをもたせる時期について最近考えています。
もし自分に子供がいたとして、そういった通信端末をもたせるのは何歳からにするべきか。
できれば自分の子供には、高校生くらいになるまでは携帯ゲームやスマホ等、持ち運べる情報端末は持たせたくないなと。
その代わり物凄く小さいうちから有害コンテンツ規制フィルタをかけまくったPCを渡すと思います。デスクトップPC、大画面のやつを。
なぜ大画面かというと、その画面の大きさから得られる情報量が必要だと思うからです。
例えばWikipediaとかを見ていても、パソコンの大画面だと多くの参照情報が一度に見られるのに対し、スマホだとどうしても見れる部分が限定的になってしまうんですよね。
おそらく、パソコンの画面で見る場合に比べて見落とす部分がかなり出てくるのではないかと。
大人にも言える事ですが、特に子供には、大量のインプットが必要だと思います。特に一つの物事をできるだけ多角的に見る事が出来る目を養えると良いと思います。
それらの情報が頭の中で有機的に結びつく事で「知恵」が生まれるのだと思うのです。
液晶の小さい情報端末は所詮「消費用」だと思う
例えば、子供はどの子でも大きな創造性を秘めていると思うんですが、その子達が「音楽が作りたい」「絵が描きたい」「文章を書いてみたい」という欲求にスマートフォンでも少なからず対応できるかとは思うのですが、その能力はパソコンの比ではないんですよね。
上記の芸術的な事柄に加えて僕は、できれば自分の子供にはプログラミングが出来るようにもなってほしいと思います。
プログラミングの仕事はなくならない
プログラミングの仕事って言うのは、決してなくなる事がないんですよね。
といえば語弊があるのかも知れませんが、プログラミングの仕事がなくなった時というのは、すなわち人間の役目が終わるときなんですよね。
プログラミングの仕事がなくなるとき=AIが自発的にプログラムを組み始めるとき。
すなわちシンギュラリティの訪れです。
シンギュラリティ(技術的特異点) - Wikipedia
人類はいずれ、自発的に自己のプログラムを書き換える事が出来るプログラムを開発すると思いますが、その日までプログラマーの必要性は最低限保証されると思うのです。
これからの時代、ほぼ全員にとってプログラミング能力が必須だと思う
加えて、今後、コンピューターと対話する能力というのは、ほぼ全員にとって必須となる能力となっていくと思います。
何においても、機械の手を借りて仕事をしようと思えば、機械に命令をセットする能力が必要になってきます。
洗濯機の全自動ボタンを押すような単純な事が多いとは思いますが、それでも細かい所までの設定をしようと思えばやはり機械と対話する能力というのは高いに越した事はありません。
前回のブログにも書いたんですが、今まで私は自分の写真に縮小処理をかけるときに、わざわざ手間暇かけていたんですが、今は1行のコードを実行するだけで全ての画像の縮小処理が出来るようになりました。
日々何度も繰り返すような事を自動化できれば、人生を通して考えた場合、何日間短縮出来るのかという事になります。
こういった個々のニーズに応える様な処理をさせようと思えば、やはりプログラムを直接いじれる方がいいのではないかと思います。
まあ、こんな偉そうな事を言っていますが、洗濯機に関しては私よりも、私の母親の方が操作に詳しいといった事が多々あるわけですが。
プロジェクトわらしべについて
赤い葉っぱは、人と交換する事かなわない限界の様相を呈していまして、もはやこれまでと土に還してあげました。
また何か綺麗な物を拾ったら再開したいと思いますが、次回はとりあえずナマ物じゃない方がいいなとは思いつつも、伝説をなぞるならばやはり葉っぱ系からのスタートにしたいという事で悩ましい所です。
いつもG線上のキリンに来ていただいてありがとうございます。
それではまた。
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