最近、人を嫌うということについて少し考えていたのですが、いつのころからか自分には嫌いな人がいないなと。
むかしは誰々のことが嫌いだなんていう事を考えていたような気がするんですけどね。
代わりに最近は「どうでもいい人」が増えた気がします。
嫌いは気に入られたいの裏返し
思うに、嫌いになるという感情はおもしろいもので、その人のことを「好きな時」に起こるものだと思います。
もっと言ってしまえば、「好きだから気に入られたい」と、恋い焦がれるときに起こるのかなあと。
誤解を恐れずにいうならば、ぼくはちかごろ、人に気に入られたいと思うことがじつに少なくなってきました。
かつては自分の生き方というものに自信がなかった為に、人からの評価を気にしていたのでしょうかねえ。
しかしある程度なっとくの行くまで考えたところ、究極じぶんが良ければ、なっとくできればそれでいいんですよね。
というか、それしかない。
もちろん、自分のされたら嫌なことを他人にしないというのは最低限ですけれどもね。
それで好かれたらラッキーだし、嫌われたとしても、もう本当にこれは仕方のないことだなあと思うのです。
嫌いになる前にどうでもよくなる
ぼくの場合、「ああ、この人苦手だな」と思う事があるとすぐに、その人には近づかないようにします。
嫌いになる前に「どうでもいい人」に分類して、以後忘れて触れないようにします。
その感覚とサイクルが、若いころに比べてどんどんするどくなってきたなあと。
これはぼくの中の基準がさだまったことによって、付き合うにあたっていい人と悪い人の区別がつけやすくなったからだと思っています。
どうでもいい人たちについては、ぼくと関係のないどこかで幸せになってくれたらいいなあと、そう思っています。
付き合う相手を選ぶこと
付き合う相手というのは、現代において、大人ならどこまでも選べるものだとおもいます。
むかしは、人間のつながりは多ければ多いほどよいものだと思っていましたが、いまはちょっとかわりました。
誰でもいいというわけでは、やはりないのです。
おもうに、これが人生にとってとても大切なことではないのかなあと。
付き合う相手をちゃんと選ぶということですね。
もちろん、こういうやりかたも完璧に、とはいきません。
たとえば仕事の関係の人で、好きではない人と付き合う必要のある場面もあります。
そういうことはどうしても起こってしまうものだとは思うのですが、これからの人生、こういうことが起こる確率を下げていきたいなあと。
付き合う人を選べる環境をつくること
これらのことは自分の生活環境にも大きく影響されるとおもいます。
たとえば子供の場合なんかは、やっぱり嫌いな人ができてしまうものかなあと。
学校というせまい世界では、どうしても気に入らない人の近くで生活をしなければならなくなります。
そういう状況だと、やっぱり誰かを嫌いな気持ちになってしまうことが起こるのかなと。
人のことを嫌いになると、自分がいちばんつらいんですよね。
心の中で、嫌いな人の嫌いな部分が繰り返し再生されちゃったりするわけで、それが本当にかなしい、こころの痛いことだと思います。
まあ以後そういう人と付き合っていくための経験になると言われればそうなのかも知れませんが、そんな経験、ないならないに越したことはないですから。
こういうことが学校教育のひとつの課題ですよね、これはいじめの起こるメカニズムにも関係があることでしょう。
本日もG線上のきりんにおこしいただきありがとうございます。
ぼくはやっぱり人のことを嫌いになってはいけないと思うんですよね。
でもそれは相手がどうのこうのというよりも、単純に、自分がつらいからです。
なので「嫌い」という感情がこころに張り付く前に、出来る限り身も心もその場から離れるのがよいなあと。
その精度をあげていきたいなあと、最近は感じています。
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