鹿児島の知覧にある特攻平和記念館に行ってきました。
中に入ると、1000枚以上にのぼるかと思われる、特攻隊として散って行った人々の勇ましい写真が並んでいました。
その写真の下に、その人達が書いた手記がきれいにならべられています。
長文、短文、辞世の句、いろんな形でいろんなことが書いてありました。
となりにいた戦争を生き抜いたと思われる、かくしゃくとした老紳士が
「出撃の時間が近いほどに文章は短くなる。人はこれから死ににいく時、長い文章を書くことはできないものだ。」
と言っていたのが印象的でした。
それらの内容は、泣き言を書くことが許されなかったということもあると思いますが、理性的で前向きなものが多かったです。
「天皇陛下ばんざい」
「お国のために」
などの言葉が並んでいましたが、その内実は家族の健康と平和を望む気持ちにあふれていました。
結局のところ、人はたぶん「国」なんていうモノは想像できないのではないでしょうか。
彼らが守りたかった「国」というのは、彼らの家族や友人や故郷だったのだと思います。
展示してあった本物の飛行機はじつに精巧に作られていて、当時から日本の工業技術が高かったことを感じました。
その素晴らしい工業品をむざむざと南の海に、搭乗員の命もろとも使い捨てにしてしまうような作戦が断行されてしまった事は、この世でもっとも悲しい出来事の一つだっただろうと思います。
これほどの非合理的な決断を強いられてなお、戦争を続けることを選択したのはなぜだろうかと考えました。
おそらく、敵兵がいざ日本の地を踏んだならば、日本人は皆殺しにされるという思い込み、ですよね。
まさにこれは、教育の重要さを示す出来事だったのだと思います。西欧人は交渉など無意味で、人間でない鬼畜であると教えられれば、正しい判断はできなかった。…しょせん結果論に過ぎませんが。
たぶん、20世紀までの戦争の歴史のひとつの帰結として、ここまでやる必要があったのだと思います。
ここまでやったからこそ、もう二度と戦争という手段を選ばないという決意をえることが出来たのだと思います。
そして英雄たちが命をかけて国を守ろうとしたことは、諸外国に向けて、日本人の誇りと覚悟の強さを示したことでしょう。
このことは、戦後から現代までにだって、ぼくらの国をひそかに守り続けている力なのだと思います。
本日もG線上のきりんにおこしいただきありがとうございます。
なぜ特攻隊の人々が死んで、我々は平和の内に生きることができているのか、その事を日本人全員がしっかりと考える事が出来れば、きっとぼくたちに不可能はないような気がします。
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