明日、43歳になる。
42歳の一年を振り返ると、いちばん大きかったのは、AIエージェントを本格的に使い始めたことだと思う。
以前なら、つくれたらいいなと思っても、実現までの距離を考えたところで諦めていたようなソフトウェアたち。それが今は、手を伸ばせば届きそうな場所まで来た。
むしろ今は、つくるための技術よりも、何をつくるかというアイデアのほうが追いつかない。
音楽もそうだ。
Sunoのようなサービスを使えば、思いついた言葉や鼻歌から、ひとつの曲をつくれる。昔なら、作品にするためには少し抽象化しなければならなかったことも、これからはもっと個別具体的なまま表現できるようになるのだと思う。
学校の先生の歌。友達の性格を歌った歌。飲み会であった、仲間内にしかわからない出来事の歌。
そんな、それぞれの人にしかない世界が、作品として残せるようになる。AIによって、世界は大量生産からフルオーダーへ近づいていくのかもしれない。
たくさんの人々が同じ楽しみを共有することが減ることは少し寂しくもあるが、一方で、かなり楽しみな変化でもある。
しかしまあ、変化は楽しいことばかりではなく、過渡期には分裂や断絶も起こるだろう。仕事や価値観が変わり、困る人もでてくるだろう。
それでも、知能が今よりもっと安く手に入るようになり、いつかエネルギーまで豊かになれば、社会の前提そのものが変わっていく気がしている。
家探しと少し先の未来
最近、私は家を探している。
買うのか、借りるのか。金利はどうなるのか。どこに住むのがいいのか。家探しは、ずいぶん現実的な迷いである。
ところが、自動運転が当たり前になれば、街の中心に住む意味も変わるかもしれない。AIが端末の中で動くようになれば、働き方も、住む場所も、もっと自由になるかもしれない。
以前なら遠い未来の話だった。それが今は、家探しという目の前の迷いにつながっている。
福岡での二年
福岡に来て、もうすぐ二年になる。
仕事は相変わらず難しく、忙しい。それでも、一緒に働く人たちとはずいぶん仲良くなれた。自分自身への信用も、少しは積み上げられたように思う。
新しい街で、自分の居場所をつくるには、やはり時間がかかるものである。
老眼と、まだ痛い首
42歳になって、老化についてもずいぶんわかってきた。
とくに老眼である。
近くにあるものにはピントが合わない。そこで少し遠ざけると、今度はそこに書かれた小さな文字が見えない。暗い場所で小さな文字を読むのは、さらに大変になった。
近づけても見えない。遠ざけても読めない。
なるほど、これが老眼かと思った。
首も痛い。寝違えたような痛みが、二、三か月たっても少し残っている。最初ほどではないし、少しずつ治ってはいる。ただ、まだちょっと痛い。
親が以前、どこかしら何かしら痛いと言っていた。ああ、これかと思った。
おそらく、これからはこんなふうに、身体のどこかが少し痛いまま生きていくのだろう。人の一生は重荷を背負って長い道を行くようなものだということを誰か偉い人が言っていたのを実感する日々だ。
43歳で試したいこと
そして、理想としているアレコレには、まだずいぶん距離がある。
忙しかったからなのか。努力が足りなかったのか。それとも、目指す場所が少しずつ遠くなっているのか。
答えは、まだわからない。
ただ、できなかったことを数えて終わるには、42歳最後の夜は少し惜しい。
遠かった未来が、家探しという目の前の迷いとつながり、新しい街には、ようやく自分の足場ができてきた。
理想にはまだ届かないが、何が足りないのかは、以前より少し見えるようになった。
家はまだ決まっていない。首もまだ少し痛い。
それでも明日、43歳になる。
43歳は、この理想をどこまで自分の現実にできるのか、試してみたい。
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